アイゼクト・フローはソビエトの崩壊と共にシベリアの寒村で産声を上げた。
当時の世界情勢として、資本主義と共産主義の諍いによる冷戦は下町以外の諸外国経済に大規模な打撃を与えていた。
当然、それは体制を崩しかけていたソ連の胸元に、鋭利な刃物をじわりじわりと沈め刺したと言っても過言では無かった。
あまり裕福では無い家庭に生まれたアイゼクトは、まだ瞼も開かない乳飲み子の時期、家庭の財政状況の苦慮により、
大量の毛布、そして極少量の腐肉と共に北部の山間森林へと捨てられた。
肉と共に赤子を森へ捨てる、その行為が意味する所の酷薄さは、聡慧なる皆におかれては時を移さずとも理解しただろう。
悪逆無道なその父母らは、彼女の"処理"を"森の番人"へと投げ捨てたのである。
当時、北部では厳しい冬に備える為の燃料確保の為、政府による破壊的な森林伐採が相次いでいた。
森林区域の減少に伴い、追いやらられた動物達は次第に生息範囲を狭め、収束していく。
そうした中で生まれるのは動物達による小競り合い・縄張り争いである。
厳しい寒さの中、冬眠を行わないシベリアオオカミの群れはすぐさま頭角を現した。
シベリアオオカミは約20匹の群れで集団生活を営む。
それぞれ役割は分かれており、群れを率いるリーダーの狼、狩りを行い集団を支える狩狼グループ、
そしてまだ幼い子狼を立派な成狼に育てる母狼グループがある。
ある日、狩狼グループが食料を拵えに麓へ降りると、匂いを放つ腐肉と共に赤子が捨てられているのを発見した。
アイゼクトである。
明らかなヒトの残り香はあるものの、美味そうに強烈な匂いを放つ腐肉、そして柔らかな稚児。
まるで天からの巡り物とも言えるような好条件で食料を見つけた彼ら。
しかし、それに牙を立てることは母狼達が許さなかった。
哺乳類はしばしば他動物の赤子に愛情を示す事がある。
この例もそれと同様だった。
兎にも角にも、アイゼクトは末娘として狼の群れへと迎え入れられたのだ。
常人にでさえ厳しいシベリアの地は、剥き身の人が数日と生きるのも難しい。
しかし、彼女は懸命に生きた。いや、狼の家族の手により、懸命に生かされたという方が適当だろうか。
群れは少しずつ温暖な地域へと移住した。
アイゼクトが齢五つになる頃には、彼女はシベリアより幾分も暖かな森林の中で、狩狼達と狩猟をする様になった。
狩狼達が獲物を追い立て、隙を縫ったアイゼクトが木々の上から降り立ち、息の根を止める。
彼女らのコンビネーションは、本来お互いが為し得ない動きをカバーするものであり、
技術は互いの信頼感と併存し、高まる事を止めなかった。
しかし、平穏とは微妙なバランスの上に成り立つものである。
ある日それが音を立てて崩れたとしても、我々に抗う術は無い。
狼は鉛玉により駆逐され、アイゼクトは拘束された。
いつもの様に狩りを行っていた彼女らは、迂闊にも軍事演習中の兵士を襲い、返り討ちにあったのだ。
ロシア軍部の恐ろしさは、ソビエトの過去を鑑みるに想像に難くない。
表向きには解体されたKGBであるが、その意向を汲む軍がこの後少女に施す教育など、
オルゴンの人体実験に比べれば歴史の闇に葬る事など容易かった。
それから約8年後、嘗ては野生児・狂狼の汚名を着せられていた少女は、身体能力の高さと地頭の良さを見出され、
青年将校隊のエリートと混じり、国家保安局に所属していた。
与えられたコードネームはルプス。皮肉にも狼の学名から取られたその名前を、彼女はあまり快く思っていなかった。
仕事内容は体躯や容姿、知性を生かした諜報、潜入、暗殺…。
産まれてから群れ社会の一員として弱肉強食の狩猟生活に身を置いていたルプスにとって、
それらは生命活動の延長線上にある行為であり、なんら努力の必要の無い作業であった。
青年将校隊の中でも、上を脅かす程に優秀。
しかし、それ故の嫉視を見逃していたのは迂闊だった。
その日の作戦は海を越え、下町への強化血清密輸任務だった。
密輸とはいえ、商業タンカーの船員になりすましてジュラルミンケースを運び込むだけの簡単な任務。
当然単独での遂行を申し出たが、同期の仲間内数人が参考にと同行を申し出た為、
やむ無く4人でのオペレーション遂行となった。
そして、ボストチヌイを出港して3日の深夜。
事件は起こる。
航海の仮眠中、首筋に痛みを感じて瞼を開いたルプスは朧げに歪む船内を見渡す。
隣の燃料室は相変わらず五月蝿い。
開いたカバン、赤、扁桃腺の炎症、鉄臭…鉄?
…状況整理。
嗅ぎ慣れたこの臭い。
急速に脳内の生産工場からアドレナリンが過剰投与される。
死体、ターゲットオブジェクト破損、血液、状況理解、絶句。
付近には開いたジュラルミンケース。
中のアンプルは無くなっており、自身の付近には使用済みの注射器と空のアンプルが1瓶。
ベッドには寝かされたままの死体が2体。いずれも仲間だ。
頸動脈を一閃されており即死している。
つまりこれは、プロの犯行。
導き出される結論イコール…仲間の裏切り。
思わず唇を噛み締める。
窓から見えるベランダでは、警告色の縄が風にたなびいていた。
此処には…脱出用のゴムボートが縛られていた筈だ。
油断していた。逃げられた。
大方、裏切った奴の筋書きとしてはこうだろう
「力を求めたルプスが味方を裏切り殺害。
強化血清を打った彼女に追い詰められたが辛くも自分だけは逃げる事に成功。その後、ルプスはそのまま下町へ亡命した。」
自身に時折怨嗟の眼差しを向ける者がいるのには気付いていた。
しかし、ここまでするとは。
狼の方がよっぽど理性的だ。
下唇を更に深く噛み込み、悔しさに震える。
自身の実力に驕りがあったのだ。
どうしよう、どうすればいい。身体は震えて動かない。
じきに見回りが来る。そうなれば終わりだ。
昔からそうだが、想定外の事態になると自分は急に弱くなる。
狼の家族が軍からの反撃に合った時、自分はどうした?反撃したか?
いいや、ただ焦るだけで震えてその場でしゃがみこんでいただろう。
軍の教育プログラムを受けた時、自分はどうした?教官に一度でも反撃したか?
いいや、ただ焦り、教官を怒らせまいと必死に優等生を演じたろう。
今はどうだ?
気付けば自分は耳を抑え込み、ただ震えていた。
私は、弱い。
ぐらり、唐突に視界が歪む。
次第に平衡感覚が曖昧になり、床と自身の境目が曖昧になる。
これは…精神的ショックによるものか?違う。明らかに違う。
…そうか、血清か。やはり投入はされていたらしい。
次第に息は上がり、首からは燃えるような熱が伝番する。
いたい、あつい、苦しい。
皮膚を見遣れば、狼に噛まれた様な赤い斑点が幾つも浮かび上がっている。
この症例は医療本で見た事がある。全身性エリテマトーデスだ。
英名は確か…システミック ルプス エリテマトーデスとか言ったか。
皮肉にしたってあまりにも、この上なく酷い仕打ちだ。
というより…血清じゃ無かったんだな。
原因不明難病のエリテマトーデスを人為的に引き起こすバイオ兵器なんて、下町に運んで何をするつもりだったんだろう。
明滅する意識のシグナルを必死に結び合わせて床を這う。
まだ誰かに見つけて貰えれば生存のチャンスはある。
流石にこんな重病人が人を殺したとは思わないだろう…
…懸念としては、感染症を恐れた船員から海に投げ捨てられないか…という所だが。
必死に冷たい床を這い、弱々しく腕を伸ばし、ノブを押し回す。
これで…なんとか…
カチリ
おおよそ、木製のドアには似つかわしくない嫌な金属音が響いた。
私には2つ、読み違いがあった。
1つは、結局自分は1人じゃ何も出来なかったという事。
もう1つは逃げ果せた裏切り者が自分にトドメを刺さないと思い込んでいた事だ。
…
下町湾沖の商船タンカー爆発事故の一報は、すぐに警視庁の敏腕刑事、杉本左京の耳にも入った。
聞けば深夜未明、沖数百メーターという所で商船が爆発事故を起こし、海に沈んだそうだ。
「(爆発事故…本当にそうでしょうか。)」
妙な胸騒ぎを覚えた左京は、埠頭に車を走らせた。
水平線に未だ立ち昇る黒煙を睨み、訝しむ。
商船が進水したのは5年前。決して古い船という訳ではない。
寧ろ、船の中ではかなり新しい方だ。
積荷は商業施設用に卸す為の食料品が主…。
可燃性のあるものは少々あれど、爆発する程のものは無かった筈だ。
やはり疑問点が多い。本当にこれは事故なんでしょうか?
働き盛りの男の眉間に、鋭く皺が寄った。
ふと、鋭い眼光の先に彼は何かを捉える。
黒く波打つ海面に、銀のブイがゆらりと揺蕩っている。
あれは?
この埠頭は静かに物事を整理したい時にしばしば訪れる。
今までの記憶を手繰り寄せる限り、そんなものを見た覚えは無い。
つまりあれは――。
目と脳が理解した瞬間、彼は荒波に飛び込んだ。